考え事:詩の無間地獄2
詩を語ると、誰かは詩から離れていく。
それでも僕は語らずにはいられないから、語る。
ブコウスキーの詩集は、日本語訳のせいもあるかもしれないけど、濃厚になった短編小説のさらに短くなったバージョンだと思った。
しつこいかも知れないけど、本当に面白い。
そして気になったことがある。
現在販売されている詩の雑誌の中の詩を読むと、漂白された世界のように見え、誰も実在していないように感じた。
誰も人を本当には殴らないし、誰も人を貶さないし、誰も酔っ払って失敗することもないし、誰も女にひどいことを言うことはない。
詩人の生き方というのはどういうものだろうと思った。作品に作り手の全てが表されるわけもなく、作品と別個のものだと思う。それはわかっちゃいる。
しかし、詩人らしい生き方があるとして、それは今では古臭くなっているのではないだろうか。
そもそも、ブコウスキーの人生が詩人らしいかというのも、わからない。
絶大な人気を誇る古い文豪たちは、わりととんでもない人生を歩んでたりするし、薬物や酒でダメになったりもする。
もしかしたら綺麗な詩を書く詩人は、実際には荒れた生活を送っているのかも知れない。
今は、自分の心情の弱さだけを並べ、自分は人と同じだと証明出来る方が、読者がつくのかも知れない。
良い悪いではない。
僕が全て間違っているのだ。
何故なら、そんな風に見えるのは僕だけだろうから。
ブコウスキーのようになりたくはないし、ブコウスキーと同じようなことをしたからって認めるわけでもない。
生き様という概念が、もう古くなってしまっているだけなのだ。
だから僕の詩も、漂白されているのかも知れない。
僕が意図するとおりに詩の解釈をされるとも思っていない。
何が言いたいかっていうと、人間らしさや、それ故の間違いが許されないのが、現在なんだなぁと、詩を読んでいても思う。
人に悪口を言うとか迷惑をかけるとか、そういうことが「良い」とは思えない。
しかし、それがない人間なんていないはずなのに、もはや詩人以外も、ほとんどの人が人間に人間を求めていないと思う。
作品に人間を求めないのと同じように。
映画や小説はどうなのだろうか?僕が見る限りだと、映画はまだ人間を求めている気がする。
それはそうだ。映像として映るから、人間が人間でないと不自然だからだ。
詩は、もはや自我でしか無くなってきているのではないだろうか。
自我ではなく、それを飛び越えた目線の詩は好きなのだけども。
例えば、事象を淡々と述べる。とか。
自我を映し出す詩は、人間的でない。
何故だろう?と思ったけど、「見られたい自分」の存在に気がつくからである。
どうでも良いことだけど、考えたから書いた。