考え事:画面の中に対する認識
僕はTwitterを1日に何時間見ているのだろう?
何の気なしに、見ようとも思っていないけど、積み重なってかなりの時間見てしまう。
すっぱりやめていた時もあったし、めちゃくちゃ嫌になる時もあるけども。
僕が僕の考えを載せることについて、あまり意味がないのではないだろうかということはわかっているつもりだけど、吐き出すところがないと、僕は耐えられなくなってしまう。
だとすれば、僕にとってはただの「ハキダメ処」なのだ。
でも、それは他人の気分を害するかも知れない。
逆に、気分を害するからってどうでも良いという気持ちもある。
好かれたいのか、嫌われたいのか。
僕は僕の作品を見て欲しくて、僕自身のことは好きでも嫌いでもどちらでも構わないと感じる。
どんな場所でも、パソコンやスマホで何かを発言し、誰かと喋るならば、好ましいかそうじゃないか、というレベルの話にはなると思う。
僕は良い距離感で、僕が好ましいと思う人物と交流出来ていると思っている。
けれど、すべての人がそうではない。当たり前だ。
実際、僕のTwitterではブロックとミュートが日常茶飯事だ。(広告防止やいいねやリツイートで回ってきたツイート主を見えなくする意図)
そう考えてみると、Twitterの実態のよくわからない言葉の海に飛び込み、深く深く潜るという感覚は、とても不思議なことだと思う。
怖いことでもあると思う。自分が発する一滴の水が、巨大な海に埋れていくのだ。
でも、それは僕の主観での話で、ほとんどの場合ネット(本来の言葉の使い道が合ってるかわからない)は良いものだと思っている。
Twitterでの良いところは、やっぱり好きなものが同じ人と交流出来る点もあるし、知らなかった情報も手に入る。
僕にとっての悪い点が多すぎて、嫌になって投げ出す時もあるし、本当に厄介な場所だけども。
僕の画面の中に対する認識は、多分社会が危惧するスマホ依存の域に達していると思う。
でもそれが誇らしい。何故なら、多分そうやって変わっていくから。
紙がどんどんなくなり、ずっと未来に木を切らなくなるかも…とか、そういうエコ的な発想にも飛躍は出来るけど、単純にイマドキっぽいじゃん?と、安心する(笑)
詩のストックは画面の中にあるし、描き途中の絵だって沢山ある。
多分スマホを落としたら発狂するレベルだし、それはちょっとアホらしいのかな?とも思う。
ある意味自分の分身になっていくのだと思う。僕の発言、思想、好きなもの、嫌いなものを、コイツは良く知っている。
小さな相棒に、ちょっと感謝する。